Hi苦の会

「Hi苦の会」について
耐久ハイキングという言葉が正しい日本語なのかはわかりません。本来、ハイキングは楽しむもので、耐久という言葉がついてはいけないようにも思うのですが、我々のサークルを表す適当な言葉が見あたらず、耐久ハイキングとしました。
会は現在6名で構成されています。定期的なものは特別なく、規則や会費などもない、まったくのグータラの会です。それでも今のところ暗黙の了解で、年1回は2日間に渡る「本番」があります。 この本番は計画から実施、反省会を含めて全員参加が立て前ですが、実際はかなりいい加減かも知れません。
歩く距離はその時々で違いますが、35キロから40キロ程度でしょうか。時速4キロ程度で休憩を入れると1日に40キロ、時間にして12〜13時間となり、ギリギリだと思います。また、場所が離れるとそこまでの移動時間もあり、朝5時に集合などにもなりかねません。
「それで耐久なのか」と言われそうですが、どこぞのTV番組の24時間100キロマラソンのように、完全なサポート体制で、身軽なわけではなく、重いリュックを背負い込み歩くわけで、実際にはかなり厳しい状態です。異論のあるところでしょうが、特別な訓練をした人を除けば、歩くということがこんなにつらいものだと感じるはずです。
本番が決まると、「練習」といわれる、予備歩行練習をします。約1ヶ月前と2週間前に2回ほど行い、20キロ〜25キロほど歩きます。このトレーニングをしないと本番は、みんなの足を引っ張る事になります。
今までの経験だと20キロを超えると、マメができるようです。また、30キロを超えるとその人の弱いところが出てきます。たとえば、マメが潰れたり、膝の関節が痛くなったり、足の裏や、ふくらはぎが腫れたりなどです。耐久はここからがスタートとなります。
よく、山登りをしているので歩くのは得意、という人を見かけますが、これは間違いだと思います。事実、一緒に歩いた事がありますが、やはり辛かったと話してくれました。確かに、歩くことには違いないのですが、山登りは土の上をそこの厚い靴でゆっくり踏みしめるように歩くのに対して、我々はコンクリートの上を早足で歩くという、ロードマラソンに近い感覚となります。だから、コンクリートから足の膝や腰をまもることが重要となります。これを軽視して、山登りの感覚で歩いては30キロも持ちません。
限界まで歩くことを謳い文句にしているのですが、自分にとっての限界はどこにあるのか、いつも悩んでしまします。長く歩いていると、足にできたマメが潰れ、膝も痛くなり、足の裏全体が針を刺すような痛みになり、たった1歩の足さえ出すのにかなりの勇気を必要としてきます。痛さに我慢できずに「もう止めたい!」「休みたい!」という気持に戦う自分と、その一方で、これが限界なのだろうかと冷静に考える自分がいるのです。その時は間違いなくギリギリまで歩いているつもりなのに、歩き終わってから「やっぱりもう少し歩けたのではないか」と思ってしまうのです。精神力を強く持つことの難しさをつくづく感じます。
ただひたすら歩くことについて、二通りの人間がいることを最近発見しました。目的もなく、限界まで歩き、ひたすら自分との戦いで、辛く苦しくものだと説明をすると、全く興味を示さない人たち(これがたぶん正常)と、おもしろそうだね、と興味を持ってくる人たち(すこし異常?)です。この中間の位置(どちらともない)にいる人たちがいないのです。つまり、興味がある、ないがはっきりしているのです。なぜなのかはわかりませんが、たぶん、心の「なにか」が耐久ハイキングを的確に表現しており、その「なにか」のスイッチがONかOFFかで、答えが明確になるのだろうと思っています。たとえば、「野菜はすきですか」という質問ならば、質問が抽象的でイエスとノーが曖昧になりますが、「納豆が好きですか」という質問には答えが明確になるように。さらに、この「なにか」は、人間の本質的な要素に関する事なのだろうと感じています。いま、これを読んでいるあなたもスイッチがONになっている人かも知れません。この答えを、あなたは何であると考えるでしょうか?
はじめたきっかけ
「なぜ歩くのですか?」 必ずと言っていい程、人に聞かれるセリフです。そのたびに、困惑するのです。なぜなら、特別な理由や目的がある訳ではないからです。
私たちの耐久ハイクは、登山や一般的なハイキングではありません。一般道をただひたすら自分の限界まで歩く会なのです。日程を決め、場所(どこからどこまで)を決め、参加者が自ら費用を捻出しリュックに必要なものを詰め込み、朝早くから目的地に着くまでひたすら黙々と歩く。足は痛くなるし、休みたくもなる、つらい、苦しい、これがすべてです。だから、楽しむためでも、健康のためでもないのです。むしろ苦しく、健康に悪いことでしょう。なのに何故歩くのか? と聞かれそうですが、説明ができないのです。そこで答えに困ると、「歩いてみてから、もう一度質問してくれ」と逃げてしまいます。「そこに山があるから」的な答えですが、真実でもあると思います。
自分でも明確な答えがないままに歩いてきましたが、このホームページを作成するにあたり、改めて答えを考えてみました。理解していただける方は必ずいる、と信じて、ちょっと理屈っぽいけど書いてみました。興味のある方はぜひ読んで見てください。
私たちは社会の一員で、日々の生活をしています。仕事をして生活を支え、ささやかな老後のために貯蓄をし、子供を育て家庭を守る。社会は、これらの為に環境を整え、法律を決め、より高度な生活のために様々な施設や制度を作る。そのすべては私たちの生活水準の向上と幸せのために。でも、その実体は、仕事は毎日忙しく慌ただしさの中で過ぎてゆく。生活も毎日を暮らすので精一杯、余裕なんてありはしない。なにかおかしくはありませんか?社会が作り出す「普通の人」を守るために、なってはいないでしょうか。現代はこの普通の人を守るために、やるべきことが多すぎるのです。「よりよい生活のために」がどこかの時代で歯車が狂いはじめて、自分がよりよく生きるためではなく、人間が自ら作り上げた社会で仮装の姿を維持するために費やされているのです。世間体を気にした右ならえの生活、互いが義理だとわかっているつきあい。人間関係で悩み、仕事で悩み、家庭で悩む。それは、いかに幸せになるかではなく、日々の生活を維持するための悩み。年老いて人生を振り返ったとき、自分に何も残るものがない、このままではいけない、そんな焦りを感じながらも、ただ毎日を生きている。
人はもっとシンプルでいい!...はず。
そんな中で私たちがなくしてしまった大切なものがあります。それは幼い頃の感性です。あなたは、この1年間に何度、涙を流すほどの感動や感激をしたでしょうか。また、そのような努力をしたでしょうか。人としての幸せは心を潤す感動や感激からくるものだと考えるからです。社会の中の「立派な大人」は、経験からある程度の先が読めてしまう訳で、感動や感激が少なくなっているのは事実でしょう。毎日の生活は単調の繰り返し、自分の人生さえも粗方見当がついてしまう。気がつくと社会に流されている、だからこそ鈍った感性を研ぎすまさなくてはいけないのです。
自分の装飾を捨てる事が、そのすべてを見つめ直すスタートであるなら、人間の本質的な機能で、利益や目的のない事をトコトンまでやってみることで、見えてくるものがあるはずだ!
「限界まで歩く」ことはそんな意味からです。